イーアルカンフーのキックの音「パポー」あたった音「ボッ」

復活した日記と旧来の日記の詰め合わせです。旧タイトル「夢はネジコンをねじ切ること」「部屋とYシャツと私と俺とお前と大五郎」 現在毎日更新チャレンジ中。

俳句について

先日ラジオを聴いてたら俳句の話をしてまして。(伊集院氏のラジオ)
実は自分のイトコにはプロの俳人がいる。プロの茶人もいる。(あと俺以外にもプロの廃人がいる)
なんだか異常に雅だなと。
俳句やお茶で飯が食えるって恐ろしい。時代が江戸か戦国か。

そんなこんななんですが、実は自分は俳句が気に入らない。だからダメ人間なんだと言われたらその通りなんだが。だが気に入らないもんは仕方がない。

完結した文章を書いてるのに
「実はこの句はどこどこに行ったときに何々を見て感じ入ったときに書いた俳句で、その時作者はこういうことがあってそのことに感動した」
というのが納得いかない。

前提条件が書いてないのに理解しろというのが無理ゲー過ではないかと。

 

たとえば江戸時代に行われていたという「一つの風景を見てみんなで俳句を詠む」みたいなコンベンションを開くというなら、わかる。
それはそういうレギュレーションで行われる競技だし、何を題材にしているからみんな知っている前提で行われてそこで消費されるからだ。
しかし、俳句を何の説明もなく単体で一首だけ抜き出すのは納得がいかない。
ならその詠ませる文章だけで勝負しろと。
人物像や背景とかの説明したかったら、ちゃんと本文中にかけと言いたい。
その文章だけ存在しているのに、その文章だけを読んでわからんものが許せん。

しかも自由律俳句になると。
定義から外れた俳句って。
レギュレーション無視。ダートラのD車にエントリーしてるのに2輪でシートベルトがついていないマシンが登場して「これも車の一種」と主張している感じか。
コーヒーを入れないクリープとはわけが違うのではないかと思うのだが、ただ熱心なファン(?)がいる分野なので何とも言えんですが。
まあ想像力を掻き立てるのが多いのは自由律かなと認めざるを得ない感も無きにしも非ずです。過言ではナイヤガラの滝では養老の滝です。(BEEP


以上のことをイトコに熱く語ったとしても「まーねー、そういうこと言う人もいるよね」(基本温厚でいい人なので)みたいなことを言って、すごい勢いでスルーされるとは思うのですが。くやしいぜ、ガッテム。

あと小林一茶って茶人のような名前なのに俳人なのは卑怯だと思う。